HAPPY
ブログ終了の危機
天使と悪魔
しかし、そう思うと同時、彼女のしたことは本当に正しいことだったのか、という疑問も湧き上がってきた。彼女の遺族の方がどうお考えなのかわからないが、もしかしたら「あのおじいさんを見捨ててまでも生きていて欲しかった」と懇願している遺族の方だっているかもしれない。二人とも助かる方法はなかったのか。私は正直なところ、そう思わざるを得ない。
そう考えると、善と悪の境目は極めて曖昧だと思う。人によって何が正しくて何が間違ってるかは違うと思うし、何が善で何が悪だという絶対的な定義付けも出来ないと思う。親切をした人がかえってその人には迷惑だったりすることもある。電車で、若者が老人に席を譲りましょうかと申し出た時、その老人に「年寄り扱いするな!」と怒鳴られてしまったりするのはこれに当てはまる例であろう。
人に嫌われまいとしてした行為が逆に誰かに嫌われてしまうこともある。最近私の身にもそのようなことが起こった。三年くらいの付き合いになる子だったが、顔色を伺いすぎて怒られ、ついには口も利いてくれなくなってしまった。そういうこともあるんだなと思った。
そもそも、皆に嫌われたくないという感情自体があまり純粋な善の感情とも言い切れない節がある。嫌われたくないのは、相手が大切だからではなく、自分が傷つくのを極度に恐れる為だ、と最近読んだ中島義道の著書に記されていた。つまりは全て自分を守る為だということになる。それを防ぐために、中島義道は「人を嫌い、嫌われることを受け入れることだ」と言う。つまり誰かを思いやる為には、誰かを嫌うことが不可欠だということである。もうこうなったらわけがわからない。善も悪もこの世には存在しないのかとさえ思ってしまう。
むしろ、善と悪は反対語なのではなく、表裏一体な存在なのかもしれない。世界の終わりが『天使と悪魔』という曲で歌っているように。そんなことを数週間ずっと考えていた気がする。中島義道の本についてはまたもっと詳しく書きたい。以上。
文化祭という名の悪夢
文化祭とは生徒が最も浮かれる日である。女子校や男子校など、普段異性と交流する場が殆どない思春期の学生達に唯一春が訪れる夢の二日間ともなれば、生徒が浮かれるのも無理はない。いつも怖いおっさんの教師も何故か知らんがニヤニヤとして子どものように楽しみにする程だ。
私は正直「自分みたいなのに春なんて訪れねーよ。リア充マジで爆発してくんねぇかな」というスタンスでこの日を迎え、実際春は訪れなかったのだが、受験生を案内したりしなかったりという実行委員の仕事をしてまぁまぁ楽しんだ。
で、軽音部に入っているので勿論ライブもやったのだが、もうあれは今となっては黒歴史になってしまった。何故か。それはMCで恐ろしいほどスベってしまったからである。それはもう、凄まじいスベりようであった。教室は、暗幕で暗くなってる中にスポットライトが照らされているライブハウス風の室内になっていたが、この時だけはライブではなく葬式のように感じられた。まさに地獄のような時間であった。心が折れた。やはり私は後藤正文にはなれないなと絶望した。
そんなことがあったが、私の友達や担任の先生など、沢山の人が見に来てくれたのはとても嬉しかった。中には男子学生や交換留学生なども見に来てくれていて、本当ありがたいなと思う。遥か彼方を超ノリノリで聴いていた黒人の交換留学生にはちょっとビビったが、音楽は言葉通り国境や性別を越えるなぁとしみじみ感じさせられた。
こういうことをMCで話したかったんだけどなぁ。
それでも岩は転がり続ける
平成25年度夏休み終了のお知らせ
アニメ文化とインスタント
私の好きなアニメに「銀魂」というアニメがある。